ライアーという楽器と、この本との出会い

病院で心地よく響く音色

友人がこの本を差し出ししてくれたとき、読んでみようと思って受け取ったのは、理由がある。

去年の秋、病床に伏し、せん妄状態の激しかった父になにか楽器を持っていこうと思い立った。父のため、というのもあったけれど、あのきれいな病室、清潔に保たれていて、スキのない部屋にながいことじっとしているのが自分が辛かったというのもあった。なにか、病院に持っていってもじゃまにならない楽器・・・自分を落ち着けるために。それで、思いついたのがライアーだった。
友達に連絡してライアーを借り、病院に持っていった。

病院には、
「ドイツでは治療にこの楽器を使います!」
と聞きかじりの知識で押し通し、持ち込みに成功。
夜中、寝ても覚めてもいないという状態(人の状態としては異常だったろうとおもう。)の父が眠りにつくまで、ぽろりぽろりと何時間でも弾いていた。

無味乾燥な病室に、響きは病室の外にまで湧き出していたらしい。
看護婦さんが「素敵な音ですねー」と声をかけてくれる。
病院でじゃまにならない音、心地よい音。
独特のまろやかな響きのおかげ。
父は老人性の難聴があるにもかかわらず、ライアーが響き始めると、振り回していた手を胸に置き、静かになった。不思議な光景だった。

倍音が部屋を満たす。

あのとき、父は過剰に飲んでいた入眠剤を抜かれていた。あまりに必要な薬がたくさんあったためだった。もしかしたらその離脱症状もあったのかも知れない。とにかく暴れて身体についている管を抜こうとする、その手がすーっと胸に収まっていく。(それからもしばらく眠れない状態は1・2時間つづくのだけれど・・・その後、せん妄が取れても、眠れないから薬をということを父はあまり言わなくなっていた。)

私もリラックスしてその場所でいつまでも慣れないライアーの練習をしていた。
あっという間に時間が経つので、おかげでそんなに苦でもなかった。

私がお借りした楽器はレーマンのライアーというものらしく、一刀彫の硬い楓の木のボディが共鳴板になっている。
リラというよりピアノに近い、という印象。
控えめだけれども、表現も十分にできる。後日他の方に共鳴体のついたライアーも弾かせていただいたけれど、病院で爪弾いたライアのほうが、病室じたいが楽器になっていくような響きで、病院にはそちらが向いいているのではないかと思う。ただ、重いし、弦も見えづらいので、習得が難しいと感じた。

本に書いてあることと、自分の体験について

ライアーという楽器は、もともとが治療のために作られたものだった。と、友達に借りたこの本には記されていて、ああ、なるほど、と思った。
あの響きはメロディをくっきりとしたラインではなく、光に溶けていく風景のように、どこかぼやけていて、メロディは影絵のように浮かんでくる。
倍音がよくなるので、響きのしっぽを丁寧に拾うとゆったりと時間が流れる。その間に、楽器がなるのではなく、空間が響きを湛えている。こういうのは個人の力ではどうしようもなく、楽器、という「モノ」があってこそ仲介してもらえる。なるほど。

この本には、ライアーが生まれた経緯が書かれていた。少し端折って入るけれど経緯はこう・・

ドイツの思想家、ルドルフ・シュタイナーの関連の障害児教育の場で仕事をしていたエドムント・プラハトは、ピアノでの伴奏に物足りなさを感じていた。彼は、リラのような弦楽器の設計図を持って、バイオリンの製作者のもとを尋ねる。そうして、新しい楽器、ライアーの制作に向かって動き始める。背景に人智学(シュタイナーの思想)の組織の支援をうけながら。・・・

なるほど、ピアノではものたりない、と。分かるなあ。治療に楽器を使う、ということは音楽療法の現場では当然あるけれども、でのその場合普通の演奏用の楽器を治療の現場に持ち込む。
治療という目的のために楽器を設計する、という発想はあまりなかったかもしれない。
人の聴くという力が自らを癒す。
療法という場で使われる音楽は、おおくの場合、回想療法や作業療法に傾いて・・それも必要だし、そんなふうにも音楽が使えるというのが音楽のキャパの広さだと思うんだけれども、「音」「音楽」の根っこにつながっていく「聴く」という行為そのものにふれるためには、そうだ、きっと楽器から想像しなければならないだろう。
人の人らしい思いが蘇ってくる場所、音のなかに深い自然と結びついていく場所。演奏ではなく治療を目的とする、ならば当然音の設計は違ってくるはずだ。その時、孤独を余儀なくされる人の聴覚に届く音はどうだろう、と考えられたことだろう。

一部引用する。

人間の聴く能力は、空気中の振動を耳が身体の中に認識することのみならず、聴いたものを咽頭が話すことによって、あるいはうたうことによって、聴くプロセスの半分が生じているのである。つまり、本来、聴いているからうたい、話すのではなくて、聴いたものを自ら歌い、話しているからこそ聴くということが生じるのである。このことによって、他の人間に出会う。聴くことは原初的な社会行動なのである。
ここで述べてきたことは、現代人間が根本的に必要とすること、つまり文明を癒やす新しい音についてなのだ。私は音楽療法のことだけを言っているのではない(ライアーのこの特徴はもちろん音楽療法に必要不可欠ではある。なぜなら<あらゆるもののあいだに>位置する楽器だからだ。)
ライアーの特徴は、あらゆるものの中間に橋渡しをするように位置し、自然に自ずから療法的観点を内に持つという点にある。シュタイナーが強調したことだが、18世紀と19世紀の音楽は、非常に強まっていく主知主義を押さえる手助けとして、療法的に作用した。

療法的なものを中心の力として理解したい。誤解してほしくないのだが、ライアーは音楽療法においても素晴らしい働きをする。ライアーは70年のあいだそうやって働いてきたのだ。

治療と学習を同じ視点でとらえる

療法も学習も一緒、きっと同じプロセスがある、と私は常々思っている。そこが多分近いところにあるなと思う。

ただ、残念ながら、弾きやすい楽器ではなかった。造作はまだ未完成なのかも知れない。まだ、これからの楽器なのかもしれないな。

でもライアーを通して、改めて音楽というものの領域の広さ・深さを思った。あの体験を経て、私自身もピアノの演奏が変わってきているのを自分で感じる。父のため、といいながら、私自身に必要な出会いだったことは確かだった。


Die Leier

ライアー(新しい弦楽器の誕生と可能性)マリア・ホランダー / ペーター・レッペ編集
猿谷利加・水野珠美 泉本信子 訳 ライアー響会出版


この本は一般には販売されていないようです。音楽大学などの図書館にあるかも・・