Yさん、Mさんの思い、私のテーマ、父の老いと病。

自分の内側からの光を大切にする、というYさんのテーマと、自分の音に耳を澄ませたいというMさんの思い、そして、人と音楽の出会いにとって本当の基礎とはなにか、という私のテーマが重なって、私の気持ちの中でなにかが動き始めている。

父の看病を通して、私が父からもらっているものも、まだ具体的に言葉にはおろしてこられないけれども、そこにはある。
多分、私の気持ちがそこにむかっている、というその選択そのものが、その影響なんだろうと思う。

私はこれまで、赤ちゃんから大人まで、長いスパンで音楽と人の間を眺めて来たつもりだったのだけど、それはぜんぜんたりない、ということにまず気付かされた。
それから、どんな人も音楽を欲しているという確信。
それとこれとは間違いなく地続きだと思う。なんとしても続きがみたい。

ほんとは自分でテキスト作らないとだめだと思う。時間がほしい。

たった8小節のうたのソルフェージュ

Yさんに約束した、決して無理はしない、自分をおいていかないということ。
それから、それが霧散しないためには一回一回の積み重ねで、音楽の基礎的な体感と知識が身についていくのが実感できるようにしたい、という私の提案。それではじまったYさんのレッスンの今日は2回め。
たった8小節の短いうたに時間をかけて取り組んだ。

それは、これまでのレッスンのなかで、インプットとして体験してきた「音楽を描く」でえたものや、これまでの知識、自分の今の技量、わかっていること、わかっていないこと、とにかく今までのワークの積み上げたものを駆使してのレッスンで、
いわばアウトプット。

最後仕上げに歌ったときの、うたの美しさ。
本人の「自分の胸にもどってきた、満たされた」という言葉。

よし、方向性はつかめた。

彼女は、好きな曲で私が伴奏を付けて思いのまま歌うと、それはとても気持ちがいいのだけれど、きもちが上がりすぎるんだ、という。なんかちょっとわかる。サポートしすぎてそこでおいていかれるものもある。それを、丁寧にひろう。それができた気がする。

その応用として、高校生のレッスンに5分だけソルフェージュをいれることもはじめた。音程が取れないとき、正解の音を与えないで、何度もスケールを歌ってみる、イメージしてみる。そして自分でとってみる。よいよい。これも続けてみる。

「音楽のゼロからの、体験を通した立ち上がりを支えるための、
楽典やソルフェージュの理論と実践の構築」



写真はオルガン・ピアノの本2 の「つきのひかり」

写真は今日の別のレッスンのもの
2年生の女の子と一緒に。 オルガン・ピアノの本の「つきのひかり」は左手のゆらぎが受け止められると楽しい。
ドソミソのアルペジオの変形で、裏にかならずソの音がくる、これをがつがつやってしまうと、この曲の情緒がもったいないことになる。
そういうことにちゃんと時間をかけたい。
表現に愛情をもってほしいな。とおもって。
楽しそうだった。いつもかのじょは 物静かにでもよくきいてて、楽しそうだ。