パズルがひとつずっとたりなかったところに
ころんと入り込んだような、本に出会った。
歴史家のホイジンガの著・「ホモ・ルーデンス」は長い歴史の人の営みの中で、
遊びとはなにか、
を解明していくという内容。
遊びが合目的的に解釈されることから逃れながら、歴史の中・民族の生活の現場・芸術の中で必要不可欠なものとしての遊びの本質・つまり体験を捕まえようとしている。
私が、小さな子たちにわらべうたをするのは、文化の伝承ではなく、生活の営みの中から、それが自然に生まれてきたもののほろほろとした生命を感じるからだし、わらべ唄の中でも、そういうものしかしないことにしている。というか、できないのだ。なにさま私自身がいつもその発生の現場にいたいというおもいがあるから、出来上がったもの、定式化されたわらべ唄というのは、考えられない。
そういう、自分のこだわりが、大人が合目的的に子どもに与えるのではなく、あくまでもこどものあそびとして、わらべ唄を選んできている、でも自分でそれをうまく説明ができなかったのだ。大人のなにがしかの意図で歌われるわらべ唄を子どもはすぐに見抜いてしまう。そりゃ、そうだ。
それは「音楽プロセス体験」も同じ。あれは基本的に遊びです。
そこの一貫性もこの本が良い糸となって、私の中でつながってきた。
荒川修作のわけのわからなさとか。
ずっとちょっと危機感を感じていたのだ。このままシリアスさだけで突き通して行ったら、きっと何かを見失う、と。
遊びの相のもとに。
それは、「体験」と深いつながりを持ちつづける。
*****************
この記事には続きがあります。
遊びとしてはじまるのではなく、遊びの中に(ホモ・ルーデンス2)
***************