言葉にならないときもある

しばらくブログ記事が滞っていたのは、 一つには7月豪雨で被害の大きかった宇和島市・吉田町のチャリティコンサートに参加していたから。スイッチが”行動する”、ってほうに入っているときって、言葉が面映くなってしまってなかなかなんにも書けなかったな。でも音楽的な面でも、社会的な面でもいろいろ感じることがいっぱいあった。すごくいろんなことがパズルがハマっていくようにつながってきた。そしてコンサートを無事に終えることもできた。

これからそこで染み入ったものと自分の仕事と少しづつ浸透しあっていくのかもしれない。
そしてやっと言葉が戻ってきたような気もする。
私にとっては、描くことも音楽の一端であるように、言葉を選んで連ねていくこともまた音楽。
ただいま、って感じ。

いろいろ思うところがあって、これからはこのサイトの記事は日記みたいにして出てきたとこのものや仕事のなかでのできごとなんかを書いていってみることにする。
自分が文章が下手なのと、もともと書こうとするものが入り組んでるのとで、煮詰まり気味なんで、ベートーヴェンやブラームスみたいな情報量の詰まり具合になってしまうんだけども、私本人の性格はわりと本来はもっとぽわんとしてるはずで、サティくらいにならんもんかな、と。

そのかわり、きちんとした文章もちゃんと書いていきたいのと、情報発信もやっていきたいので、noteの方で記事を書いていく準備を始めた。そこでは有料のコンテンツを作ることも視野に入れていこうと思っている。

チャリティで演奏する、ということについて

演奏するのも久しぶりだったのもあるけれど、チャリティだから、そこにはメッセージ性が否応なく含みこまれていて、それを思うと、音を作っていくプロセスがほんとに難しかった。
音が無神経に刺さっていかないような、自分の言い分を押し付けていかないような、
それでいて、窮屈にならないような、萎れない、媚びない、
余白をもった、そして、一曲一曲が生きていくような、歌い手さんが一番輝くような、伴奏。

歌をうたう方は災害にあった当事者に近いところにいる。
それがわかっていたから、いい加減にできないとおもった。
小さな曲も何時間もかけて、音の運びを吟味した。細かなミスよりもそこを大事にした。

よく選んでいくうちにミスは自然に減ってくだろう、と。
ミスを取り除こうとすると、無理がいく。
歌に対して、伴奏はどうやって絡むかとか、柔軟性。
描く、ということはしなかったけれど、音楽をイメージする力は、描くことをしてきたことで、明らかにクリアになっているから、だから、やりがいもできてきたし、簡単に済ませられないという事態にも追い込まれる。

幸いにも選曲がいい。
自分が選んだんじゃないってことが、そのプロセスだけを見つめるにはむしろよかった。

いい音楽にする、というより、そこに具体的にどんな人たちがきて耳を傾けることになるのか、
そこで、何を感じることになるのか、そういうことを考えた。

格好良く整えようとするとか そういう邪念は音楽を伝えるじゃまになる。
出来にこだわると、相手の音が聞こえなくなる。
いや、ボランティアであろうとなかろうと、それは、本来、いつもそうありたい、とそうか、自分はそう思ってたんだ。
この感じを忘れたくないと思った。

結局それらは、音楽そのものへの追求となんらかわらないことだった。


チャリティコンサートの当日に生けたゆりの花写真は、コンサートの朝、散歩のときに採ってきた、やまゆりの蕾。
会場に持っていきたかったのだけど、花類の持ち込み禁止だったので、断念。