五感で学ぶ音楽メソッド

ミスを指摘されるとからだは固まる

レッスンのさなか、生徒が演奏してて、間違っちゃって、先生の自分が条件反射で、

「あ」なんて言ってしまう。

そうすると、生徒の動きが止まる。 ってときになにが起こってるか、ということを考えてみた。

生徒は、固まる。それは先生の声に反射的に。

そうして、ミスタッチ→固まる の身体化が積み上げられていって、ミスが怖い身体が出来上がる。

自分自身が、強固にその身体化した収縮反応をいまだ持っているから、あれがどれだけ罪かってこと。

「ほら、間違ったでしょ!」と練習のさなかで声をかけたのは先生ではなく、ははさまで、

そして、この身体化、厄介で、気がついたら自分が自分の娘にもやっていて、この悪循環、なおすのに何年もかかった。

娘は小学校3年でピアノをやめ、自分の罪の重さをずっしりと味わったのでした。今思い出しても申し訳ない。

今、ミスタッチをしない事より大事なことがあるんじゃないか

例えば、全体が同じリズムで進行していて、その流れを掴めたらOKという目標の曲。

でも、もしも、一個一個の音を楽譜の左から順に仕上げて行くような感じでやってしまって、慣れない生徒は一寸先も闇状態で、綱渡り。そんな時、ミスタッチに反応して先生が声をあげる。てなことになると、音楽の流れを掴むことなんか、到底できない。

昨日、全く初心者で50台半ばでピアノを始めた大人の生徒さんが、丁度この曲をやっていて、間違いつつも、良い流れができていたので、最後までとどまらず、心地よく弾けてて good!。
この方は、音を間違うと自分でびっくりして、手を引っ込めてしまってたけれど、この時のレッスンで流れにのって弾いていくイメージみたいなのがついてきたように思う。初心者のかたはとかく、自分の演奏に対して、恥ずかしいとか、否定感もあったりして、だから、演奏中の声のかけ方って、大事と思う。演奏、楽しんでもらえるようになって嬉しいなあ。ここまでには、もちろん、声かけだけではなくて、レッスンが重箱の隅を突くようなものにならないように、音楽の全体がみえるように、という工夫もしながら、だけど、声かけ次第でそういったものを手助けもするし、台無しにもする。大事なのは、ミスを直して、間違わないようにすることじゃない、と思うんだな。大事なのは、継続していくレッスンの中、その人の中でどんな風に音楽が構築されていくか、だ。

ミスタッチをミスだと指摘する前に、ミスタッチの原理を検証する

ミスの原因が、リズムでつんのめる、ということもある。2分音符が十分に伸びないと、寸づまってきて崩壊する、ということもあるかもしれない。

この生徒さんの場合はそれは、うまく乗りこなせていて、2分音符も十分に伸びてたから、最後まで弾けた。

で、弾き終わってから、左手が開かず、シソの和音のところが シファになっていたことをお伝え。

原因は手がこわばっているか、音の変化に早めに気がつけないか・・・でもこの問題は、根っこが同じ。

で、ここからが大事なことだと思っている。

結果ではなくプロセスを積みなおす

ミスした、しなかった、というのは、結果で、プロセスではない。

その人にとって、結果だけを云々するというのは、先生としていかがか。何も教えてないってこと。(もちろん自戒をこめて、ね。)書いたように、むしろ身体に余計なモノを刷り込んでしまう。

たかが一つのミスタッチ、されど、一つのミスタッチから、多くの情報を引き出すことができる。そういう時、先生は観察がとにかく大事。間違う、というすでに終わった出来事のなかではなく、音から音へ、音楽の構成のなか、その経過・プロセスが音楽の育成の現場であって、その人の体験もそこにある。

例外

例外もある。ここは、声かけるとこやろう、ということ。

●レッスン生が自分で、間違って止まって、何度もおなじループで弾けない場所に突っ込んでいく場合。まず、そのループの意味のなさに気づいてもらわなければならない。というか、声かけないと、ずっとやっていて同じミスに食い込んでいってしまうので、タイミングを見計らって、声をかける。でもそれだって、いきなり流れを止めようと思っても無理で、どこでどんな声かかるか、が勝負。この練習法は一般的にもよくみかけるけれども、練習の仕方を見直したほうがいい。それを共有するのが目的。学習障害・ADHD・多動傾向のレッスン生なんかもよくこういうパターンに陥る。そういうときこそ腕の見せどころ、とほくそ笑むくらいの余裕が、講師歴33年、やっとでてきた。自分えらい。

●本人が気づいてない原因を突き止めるため。
これは、ミスタッチで止めても、間違いを指摘しているのではない、ということが共有できた上で。音楽が生まれていくプロセスをよく理解してもらって、根本的な修正の方法を考える。いやそもそも修正という考え方ではないのだな。音楽の流れ、自分の身体への興味、音を聞くこと、それはミスを直すことではなく、音楽を構成していくこと。だ。それを共有する。

生徒は教室の外でも、ミスしちゃいけない、という観念を身に着けてきている

レッスンで気をつけていても、生徒は大概、みんな間違っちゃいけない、と思っていて、自分で身体を止めてしまう。物事を結果から修正していく、という方向性っていうのは、強固に現代に根付いてるんだなーとおもう。プロセスに立ち戻る、それを共有するっていうのは、簡単じゃない。例として初心者のレッスンをあげたけれども、学習が進めば進めほど、刷り込んできた傷が深いってこともある。

問題は、ミスを指摘して、それを結果だけみて修正することもできる、ということ。器用な人ほどこれで済ませてしまう。でも実はミスするからわかってくる音楽の深みってのもある。自分と音楽を結びつけていくチャンスがそこにある、ともいえる。そういう使い方もあるっていうこと。

教えたいのは音楽で、パフォーマンスではない。


写真は庭にさいた薔薇。スーヴェニール・ドクトル・ジャメイン