自分の音楽を手繰り寄せる

1月6日、正月気分も開けきらないで、雨上がりのてらりと光った暗い路面を蹴って、飛行場へ。そして東京は快晴。誇らしげに立つ富士山。幸先のいい始まり。帰りは、「雪雲で飛行機引き返すかもー、」とJALからのメールにギョギョッと思ったけれど、心配したほど揺れもせず、飛行機は静かに、松山空港に降り立った。

今日はこちらでの音楽教室の行事を終え、やっと一息。

去年のことや、正月からの一連の出来事を思い出しながら、私の仕事の初志である「その人が音楽をする」手助けをする、ということにほんの一歩近づいてきているような気がして、嬉しくなってきた。
自分の音楽を奏でる、というのは自然なことで、シンプルなことだから簡単・・・なんていうのは甘く、実際にはなかなかそうはいかないもの。そもそもが”ピアノが”弾けるようになる、とか、もっとうまくなる、みたいなのが目的になってしまっているのが今の音楽レッスンのニーズだから、それが果たして自分とどんな風につながっているのか、それとも、どこかで途切れているのか、なんて、そんな疑問を持つことさえ少ない。だから、私はその問いの種を蒔くところからはじめようと思ってきた。その問はきっと本当は誰の心にも眠っているはずなんだと、思う。

この種まきは私のところから芽がでるのではなくて、音楽に触れていく人の中からしかでてこなくて、だから、それは、どこか雲をつかむようなはなしで、理想論にすぎない、と自嘲することもあったけれど・・

そっと、自分の音楽を自分の手で手繰り寄せる。それは、とても繊細で丁寧な道すじが必要なことなんです。その手が見え始めてきている。

そんな仕草を、私はこのごろ、音楽教室の中でも、大人の講座の中でも感じることがある。確かに、なにか、変わってきているし、生まれてきているという感触は、回り回って私を奮い立たせてくれる。

自分の音楽を鳴らせるためには、どうしてもその人の中で表象が動的で多面的で総合的なものに育ってくるのをまたなければならない。それは自分の中にその衝動がうまれなければできないことだし、その衝動を導くのは、それができると思えるだけの内的な音楽の場が生まれていなければならない。そういう具体的な実感を育てていくこと。

うちの屋号を「utena music field」と名付けたのが2年ほど前のこと。本当は名前なんかどうでも良いくらいに思っていたのだけれど、そういうわけにもいかない。一般的によくある 「谷中音楽教室」のような、名字に音楽教室をつけるのは、何となく自分にはおこがましいようで、しっくりこなかったので、それで、この名前になったというわけで、最初はその程度のものだった。私は、猫でも、我が子でも、名前をつけるのがとても苦手だ。変な話だけど、名前つける程の何様よ、とおもってしまうが、それは、半分逃げでもあるな。つまり、何処か他人事。でも、時間が立つうちに、つけた自分の思いを超えて、名前自体が、本体と響き合って何かを発し始める。

utenaというのは場所とか高台のことをいう。そして、花の萼(ガク)のことでもある。これは一人ひとりの音楽する人の下支えになりたい、という思いから随分前につけた名前。高台の上に立つのは私ではない、花を咲かすのも私ではなく、一人ひとりの音楽をしたい、と思う人の意志だ、というおもいがあったからだ。

さらに教室ではなく、fieldになった時、それはさらに、風に乗ってどこへでもいっておくんなさい、という気持ちがあって、花の種が飛ぶように 私のイメージはうんと未来や遠くへと広がっていった。

ランディング・サイト(降り立つ場)ということばを残したのは荒川修作。感覚が私を生むのか、私が感覚を広げるのか、それはわからない。ただ、降り立つ場が、良い土壌に恵まれ、種が発芽するための条件を整えておく、utena music fieldがやろうとしていることは、そんなことだったし、現在進行型で、少しづつそれは実現していっている手応えがある。

だから、ここでは、実感を伴った基礎を大切にする。自分で漕ぎ出すオールを手にするために。これからも、ここを掘り続ける。


utena music field
ちいさな音楽教室から発信しているサイトです。

うてな(台・萼)は高台とか花のガクなどの意味。
一人ひとりが自分の音楽を見つけられるように、
その下支えになる音楽レッスンをしたいというおもいからつけられました。

また音楽レッスンの試行錯誤の中から生まれた
drawingによって音楽と自分とを結んでいく講座「音楽を描く」などを開いています。
講座についてはこちら
講座案内

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