病むものと健やかなるものは同時に生きる

今日はクリスマス。

お蔵入りしていた文章を引っ張り出してきた。以前に書いていた「おとをみる かたちをきく」から、これは春先に書いたもので、梅の木と父の血管の不思議な一致感を覚えたことを書いている。

この記事を心に覚えておられたかたがいた。自分のものであって、すでに誰かのものでもある。伝わる、って不思議なことだ。


東京にいっても植物ばかりを見ている。今回はこの梅の話から。

西武新宿線 新井薬師前駅のいい感じにひなびた駅前を横切って、いつものレンタルスタジオへ向かったときのこと。幾つかの雑居ビルがうねった細い日陰になった道沿いに並んだ、その先にある、スタジオ。その玄関先は大切にされている庭木やメダカなんかがあって、都会に来たことを忘れさせるのどかの空間だ。いつもは日陰のメダカの水槽が今日はなんだか嫌に明るい、とおもったら、向かいの建物が撤去され日差しがさんさんと降り注いでいた。思わず目をあげると、その空いた空間の隣のビルと競うようにのびた梅の木のひと枝だけが白い花をあでやかにつけているのが目に入った。

みると、この梅の花は、田舎でいつも見るような感じに、放射状に広がった枝いっぱいに咲き広がるのではなかった。日差しを求めて上へ上へうねるように木は折れ曲がりながら伸び、その背伸びした枝の先には花のないものもあり、もしこの花盛りのこのひとえだがなければ、この季節葉っぱもないから、枯れ木かなとおもわれそうな木。それでも生きている証拠があの花のひと枝だった。

かっこいー。

おもわず、声が漏れる。鮮烈な青い空に向かってビルと争って咲く梅の花。いや、梅っていうのはいつもかっこいい。こんな場所でもなんて誇らしげに咲くんだ。

みすぼらしい、とか、都会でかわいそう、とか、病んでいる、とか、そういう視点で見ることもできるかもしれない、が、そんな同情をしようものなら高い空からみくだされそうだな。けってな感じで。

田舎の梅と比べたら、枯れ枝は確かに痛々しい。五体満足、という木ではないのは確かなのだけれども、その患う部分と拮抗して、鮮やかな花の生命はどこまでも健やかだった。

その梅の木の清々しい記憶は、ある出来事とリンクする。

場面は変わって、病院の長い廊下の突き当り。カーテンで仕切られた狭い空間に父と母と主治医の先生と私とで、パソコンに映し出された父の心臓の血管が動いている映像を何度もリピートして見ていた。先生の説明によれば、血栓で一つの血管が詰まったのはもう随分前のことで、そこから先は死んでこそいないが、血流は乏しくなっている。にも関わらず、これほどの状態とは数値としてでてこなかったのは、他の健康な本来細い血管が発達し、血流のない方へ伸び、それを補ってきているからだ。と。

その、血管の枝分かれしているさまと、あの、梅の清々しさはあまりににていたのだ。

思っていたいたより進行していた、と何度も不安にかられてつぶやく母に、いやー、生命ってのは凄いねー。父、すごいねー。とつぶやき返す。患っている、ということと、健やかである、ということは同時に進行する。だったら、健やかなものの方を信じてみたらいいじゃない。と。何度も言い返すうち母もだんだんそんな気になってきたらしい。よかった。

例えば、世の中が病んでいる、と、そういうこともいえるかもしれない。けれど、世の中もやんでいるものと健やかなものは同時に生きている。いつの時代も、荒廃や死というものは免れない。そしてきっとどんな時代にも、どんなに病んだ世界でもそれに拮抗して、生命は伸び続ける。だったら、病んでいるものの方を嘆くより、その伸びていくもののほうに寄り添っていこうとおもうのだ。あの、江戸っ子の梅に見た健やかさを追いかけるように


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