線を引く

線を引く

線という境界

「線 」について、いろいろ調べていて気がついた事がある。線、というのは大方において既に引かれた結果のもので、境界を表すことがおおい。ということ。

一線を超える。
線を引く。

私が仕事で扱っている線は育成途中、何かをなすプロセスなので、私の言っている「線」という語の使い方はヘンなのかもしれない。この事実に正直戸惑ってしまった。そして、ワークの中での幾つかの出来事と、それは重なってきた。

初めてワークを受ける人の中には、この方法で線を描くのにためらいを持つ人もおられる。すごく変な感じなんだそうだ。試しに姉にやってもらったときもそうで、「普通、そんなもんよ。日常にないもん。」と言われた。そうなのか?!私にはあまりに日常化しすぎていて、「線が生きてきる」と感じることが非日常とは思ってもみなかった。

線という運動・時間経過

1歳前後の赤ちゃんの”じろじろ”(おえかきのこと)は、まるをぐるぐると描く。みんな間違いなく最初は ぐるぐるした曲線だ。これは、何かの形を描いているのではなくて、腕の運動だ。その運動が外界に跡をのこす。赤ちゃんはそれがおもしろくって、なんどもくりかえして描く。だから、必ずみんなが衝動として持っているはずなんだ。

それが、形を真似るようになり、形がみえてきて、大人が「これは誰?」とたずね、「おかーさん」とか適当にこたえるうちに、線というものが 視覚領域のもの、形を抜き取る道具になっていく。それは必要なことでもある。ただ、運動としての線をそのために失っていくのはとても残念なことだと思う。

だからな、子どものうちに自由な線を描いたり、フリーハンドで五線を引っ張ったりしてみるべきなんじゃないかな、と。まだ赤ちゃんの体験が残っているうちに、自由な線を描いてみておくのは、細々とした教育以前にとっても大切なことなんじゃないかと思う。

なんでかっていうと、

たとえば、絵画において、猫を描いたものでも、

猫をなぞった という絵と

猫という生き物を描いた絵の違いは、きっとあって

それは、境界としての(日常にまっとうな)線であると同時に、そこに猫というもののの動きも現しているか。そして、絵を描く人が何かを訴えたいとしたら、その、後者のほうではないのか。そういうものを表出する方法を私たちは一体どこでうしなってしまったんだろう。

線が活発な運動の表出として描かれるということは、それは、音楽にも通じていく。(「音楽を描く」ワークの中でも最初は、ためらいのあった人も、そのうち描き慣れて、馴染んでくることによって音楽とむすびついてくる。)ものの見え方や関わり方も違ってくる。もしかしたら、思考にも影響を与えているかもしれない。事物のなかに入っていくか、事物の表層を踏み固めていくか、事物の輪郭だけを追っていくか。

これは、個人の有り様の問題ではなく、「日常」からこの動きを追い出してしまった教育の考え方の問題なんだと思う。だって、赤ちゃんは描けるんだからね。

そして因みに、線が生きてるかどうか、はうまい下手の問題じゃあない。

そういえば、余談だけれども、最近のAIのお絵かきのレベルがすごいらしくて

落書きの次の予測をしてちゃんとへたに描く 「 sktch-rnn」 とか、

下手な落書きを上手に修正してくれる「Aout draw」

とかあるらしい。どうよ。

音楽ワークショップ 「音楽を描く]については こちら↓