自分の中の音楽を大切に育てる時代が来ると思う

ピアノに限らず、クラシックにかぎらず、「音楽」という消費活動に勢いがなくなっている、という話を耳にする。そこには、ネットで無料で音楽が配信されるシステムが定着していることなどの、流通の変化もあるだろうけれど、どこか、音楽きくほうが疲れる、 というような、 ほんとに音楽いる? みたいな雰囲気もあったりしないだろうか、と思う。私がもし音楽を生業にしていなかったら、もうとっくにもっと静かな生活を求めてると思うんだな。

溢れる情報の騒音の中に音楽が位置していて、このむと好まざるとにかかわらず、一日たりとて音楽の聞こえない日はない、という日常。音楽っていいもんだという、もう、否定しちゃいけないみたいな前提があって、そういう押し付けられるのは無意識のうちに、もういいかな、って思ってる人、 いるんじゃないかな。このまま音楽は衰退していくのだろうか?

イヤホンを外して、周りの音を聞いてみよう。

自分の耳が何かを捉えているのに気がつくかもしれない。

配信されてくる音楽、誰かが作った素晴らしい音楽に対して、自分というのは貧相なものだろうか?でもあなた自身の仕草にはちゃんと、きく、という所作があり、耳は何かを選択していく。

拙くてもいいから、自分の音楽を求めてみる。
外にではなく、自分の感覚の先に求めてみる。

感覚を覆っている、余計な飾りをひとつひとつ解いていく。

直接自分で音楽に触れてみる、向き合ってみる。

もし、一人ひとりがそんな風に音楽に関わり始めたら、 音楽も、世界も何か変わるのではないかしらと思う。

靴下をひっくり返して、裏が表に表が裏になるように、なにかがクルンと裏返って、音楽の意味が全く違うものになる、そんな日が近いんじゃないかと、 思ったりする。

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音楽を描く、という作業も、リトミックもコンクールも、何でも、押し付けになることはある。だからこそ、音楽を描く、という作業にはたくさんのルールが必要で、 新しい時代のために、ひとりひとりの音樂するプロセスを大切にする前提を根付かせなくてはと思う。一人ひとりが自分の体感を大切に音楽を育てたいと思い始める、そんな時代がかならず来るから。

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