音楽の母音

音楽に、言葉と同じような”母音”と”子音”に相当するようなものがあるかもしれない。そして、私はその母音のほうと繋がることを希求しているのかもしれないと思う。

日本語でいうなら、あいうえお、というシンプルな5音だけの母音だが、この音は喉の奥から発声し、息を途切れさせること無くつながりながら発音することが出来る。子音はもっと口の表面で、物理的な方向性を定めて発音し、一個一個はバラバラになる。昔、コーラスに参加していた時、その様に教えてもらった。
日本語の場合、例えば

”ねこがひるねをしている。”というとき、

”えおあいうえおいえいう”という母音でつながり、

これにN K G H R N W S T Rという子音の小技で個々の音を固有のものにしている。

その母音的なもの。

それを音楽で感じる、というのはもちろん比喩的な言い方で、実際にはその役割も意味も違っているのだが、内奥でつながり音楽のベースをなしている音楽の心臓や内臓のようなもののほうを、いつも探しているような気がするのだ。それを母音的、と表現してみるのはどうだろうと思ったわけ。それは、ミをミと同定する音感や、暗譜、楽曲分析などのようなものを子音的要素、とした時の、その母体になっている音楽の生きている脈のようなもの。

「音楽を描く」というワークの中に、オスティナート(繰り返し)を探す、というのがあって、音楽の持っている呼吸のようなものを描き出す練習をする。
例えば、シューベルトの即興曲の3番(schubert/impromptus op90-3)は、4小節単位の呼吸があって、その一小節目の終わりから緊張が高まり膨らみをまして2小節目に流れ込み、その余韻で3・4小節目が素直で自然な流れをもって穏やかに新しい1小節目にバトンしていく、という流れをほぼ全曲にわたって繰り返す。その1小節目終わりの緊張は和音であったり、音高の高鳴りだったり、たたみかけるようなリズムだったり、それは場所場所によるのだが、それが理解できてくると音楽はぐっと自分に親しいものになるし、身体と同調してくる。表現というものが恣意的でなく自然に湧いてくる。

(余談だけれど、これを見つけたのは、以前自分が練習していた時に、何度もそのモーションを描いてみたときのことだった。描いてみることによって、予感のように何か、と感じていたことがリアルになっていく、というのはやりがいがある。その時のスケッチが下)

オスティナートだけでなく、音高にしても拍の抽出にしても、出ている音と言うよりは表出させている原理のほうをつなごうとする。そしてそのほうが、ずっと身体にちかいもののような気がするのだ。母音が身体のずっと奥からなるように。

そして言葉が母音だけでは成り立たないように、音楽もこの原理のようなものだけでは、ただのたうつだけで音楽には成り得ず、実音とか、楽器とか、表出させていく道具と、常に楽曲理論やリズムなどといったものに変換しているわけで、そことの接続感も常になしではありえないものなのだ。だからいつも実音を聴くこととの連動を大切にワークをするようにしている。けれど、探しているのはこの母音的ななにかで、それは一人ひとりと音楽をつなぐ糸口になりえるのだと、信じている。


写真は実家の近く、四万十川の上流 広見川沿いから、携帯で目一杯拡大して撮ったらこうなった。画質が荒いのがかえってみたものに近いかんじに。あんまり遠く、見えていないので・・・・。川のある景色は大好き。


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