音楽を描く というのは、描くことが目的ではなくそこで体験していく実感の経過を追っていくものです。その中で重要なことと捉えられているのは、どんな風にきいているか、どんなふうに 音や音楽と関わっているか、ということ。
やっと自分の音楽の支えを見つけ、自分の感覚で音楽を掴むことに馴染んできたTさん。
少し前くらいから、グループのときも個人のときも私が意識し始めていたのは、その自分を見失うことなく、周りの音を受け入れていく、ということでした。
もちろんそれは、最初っからできるにこしたことはない。よく指導する側はかんたんに「もっとききなさい。」「まわりのおとにあわせなさい。」というけれども、実際にはそれは難しいから、閉じているという話で、そのやるせない平行線をどうやって超えていけばいいのか、ということは、ずっと私にとってもテーマでした。そう言う指導者側もどうなんやろうな、と正直思います。
というのが、音楽というのは、人と共有したときに何倍にも膨れ上がる奥行きがあって、それを体験してほしいと思う・・でも、往々にして、それは簡単ではない。言えばできる、注されれば治るというものではない。リズムに乗って合わせるとかいうのは「リズム」に乗っているのであって、他者の響きと共鳴しているわけではなく、そのあたり、その差異は厳密と私はとらえています。
具体的に、人の音が自分の中に流れ込んできて、そして、それは自分の体感を奪うものではなく、一緒にランデブーしていけばいいもの、と認められるそういうあり方は互いの理解の度合いの深さがなければできないことで、ここに「聴き方」という感覚的な問題が関わってくる。
そう、存在のあり方ではなく、これは感覚の問題。
お互いにききあえない、というのは悲しいことだ。
でも、聞こうとすると自分を見失うのであれば、それはアイデンティティの問題でもある。
しっかりと自分の音楽の筋道を追うことができるようになったTさんとじっくり自分で自分の音楽を構築したあと前回のワークで うるさいと感じていた伴奏のワークをやってみてから併せてみることにした。
なぜかわからないけれど、涙が出た。
と仰った。
ええ。
それ。伴奏をしていた私も確かに、あなたがきいているのを感じていました。
共に音楽をするということ。
一歩先へ進んだ気がしました。