天使の手

なにかやってみようとおもって

やってみたら最初はすんなりうまくいったのに、

何度かやっているうちになにかが絡んできてしまって、

最初の手応えが消え失せてしまう、ということ。

よくあるんではないかなと思います。

生徒もときどきそれでくしゃんとなるので、私は

「ありゃあ、天使さんがてつだってくれてたんだね。」

と説明しています。

空から、天使さんが手助けしてくれてたんだけれども、今はもう自分でしなきゃならない。天使さんはもう自分でおやりなさい、と言ってるんだ、と。

それは人のある一瞬のじぶんでどうやったんだかわからない集中力、無心の素晴らしさと、模倣の素晴らしさなんだと思うけれども、ひとたび、等身大の自分に戻った時に、身体も意識も思うように働かなくなっている。そもそも身体や意識を思うようにさせようともがくというのは、無心や模倣とは逆方向にエネルギーを注ぐことなんだから、プロセスとしては当然のこと、だと私は思います。プロセスとして当然のこと、としてわかっていれば、投げ出さないで、もう少し踏ん張ってみようという気持ちも湧く、といいなあ。

天使(無意識)が、やっていることは、ほんとうの意味で自分が獲得したものではないから、消えて行くのは当然で、それでいいんじゃあないかな。ただ、一度、自分にそれができるんだ、ということがわかれば、そこへたどり着く道すじもほの明るくみえてくるというもの。

もしゃもしゃになっているそこまでの道を丁寧に解きほぐし、小さな自分と対峙して、小さく乗り越えつつ、感覚(受動的にも、能動的にも)が何かを取り戻していく、その過程は、それが単純な作業の習得とかであったとしても、そこには補修のプロセスが関わっているようなきがするのです。もしゃもしゃだから、天使のお手伝いも必要なのだけれど。

自分で何かを獲得する、というのは、コピーでは得られない、そうした何かができるようになった以上の別の宝物を拾ってるんだよ、という話。だから、器用に生きるより、投げ出さないで愚直にじぶんとむきあってごらん。


写真の窓からのぞいているのは天使ではなく、小悪魔でもなく、等身大にうちの猫。

どーでもいいけど、入れて。って言ってます。

音楽ワークショップ 「音楽を描く]については こちら↓

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です