視覚と言葉のエッジ

私の感覚の中に深く残っているあの、暗闇の中(ダイヤログ・イン・ザ・ダーク)・・いや、自分の感じ取った新しい世界では、もっと物と物の間はなめらかにつながっているかのように思えた。
そして、人の声と手は暖かく、いつも漠然と感じている人と分断されているという思いよりも、その人も自分と同じ質感を持っていてつながっている、という感じが大きかった。うんと人を近くに感じる。それは触覚の世界ではエッジはどこかぼやけたままだからかもしれないな。それで逆に「見る」世界っていうのは、「分けて分かる」世界なんだな、と思った。見るっていう行為はものともののエッジを際立たせ、それぞれをはっきりと認識する、ということなんだ。

言葉、というものも、視覚というものに似ているかもしれない。ものやことをエッジによって浮き立たせている、ということにおいて。

本来人の感覚や知覚や感情は、複雑な陰影をもっているはず。
けれどそのままでは、意味を掴み取ることはとてもむずかしいし共有できないから、何かを伝える時、どうしても、そのの複雑な深みを切り落として、他と分け隔てたものとして、提示しなければならない。たとえば、トマトは赤い、と言ってしまう。

でも、そうすると、きちんと伝わるもの、共有できるものが生まれると同時に、赤、では言い尽くせないトマトのなめらかな質感をともなった、トマトでしかありえない色合いは、感度の悪いカメラで撮った写真のように、何かを取り落としてしまってもいる。

言葉も視覚も、生活し、ものを考えるために、どうしても必要なものだから、むやみに否定するものではない。これの恩恵というのは計り知れないものだとおもうのだけれど、一方で、このエッジの存在も知っておいたほうがよいのかもしれないと思う。

なぜなら、人は簡単に エッジがあることによって、大切なものを閉じてしまうから。

言葉によって切り取られたものは、伝達のスピードと拡散量が格段に良くなる。けれども、そこに含まれないものの存在も私たちは忘れてはいかんな、と思うのだ。

例えば、AさんとBさんが同じものを見たり、体験したりして、Aさんが「あれは赤かったよね」というと、Bさんは、もしなにか漠然と違うものも感じていたのに、ああ赤かったね、と思った時に、もしそこでもうそれ以上のものを感じられなくなったとしたら。いや、たとえではなくて、これはもうそこここで頻繁に、日常的に、炭酸の泡のように生まれ続けていることなのだと思う。

そしてその習慣は、視覚や言葉の世界を超えて、人の習性になってしまっている、ってこともあると思う。固定概念ってやつ。音楽の世界でも。結局意味を差異やエッジによって捉えているのは視覚とか言葉とか以前に人の習慣的な脳の働きなんだから。

そこをどやってこえていくのかな、人は。


今日は、雨。

紫陽花のはっぱにも。

古い記事に手を入れました。
漠然と感じていることをことばにおこしていくのは、嫌いではないけれど、大変。ことばを選ぶっていうのは、結局いろいろ混ざり合っている自分の混沌のなかから、大切な質を取り出してくる、ってことで、それもやっぱり、エッジを持つ言葉だからできること。

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