多動の少年と描く

その男の子は初めて、視覚と聴覚とタッチとをクリアに一つにして、深い呼吸の中で、ゆっくりと演奏をしとげたのだった・・・

とにかく、小さいときから動き回る子だった。
今までであった子達の動き回り方のパターンは2種類あって、一つは教室をウロウロするタイプ。もう一つがこの彼のタイプで、同じ場所でずっとスピンしている。身体を人の鞘だとすると、その鞘に感覚が収まらない、そんな風に私はいつも思うんだが、その収まらなさ、は人それぞれに違っている。スピンタイプの子のほうが、キューッと狭く、濃い。

いつも悩むのは、こういう子たち・・・多動や、学習障害、アスペルガーといった子達をレッスンする時、目標設定をどこに持ってくるか、ということだ。一つの方法としては、曲を何が何でも弾けるようにする、か、それとも、欠けている部分を無理に伸ばそうとしないで、持っている感覚が喜ぶような、楽しいレッスンをするか。
私はそのどちらも選べない。
なぜなら、私は誰だって、自分の心と体と頭(意識している自分)を全部連れてピアノを弾く、ということが音楽をするということだと思っているから。

私は、この1人の人が将来音楽とどんな関わり方をしていくのが幸せだろうかと考える。そして、そのために必要なのは、なにか、と。そう考えるとおのずと見えてくることがあって、一つからでも感覚を開いて外との整合性を見つけけることや、音楽と、身体も心も感覚も自分の身の丈の全体で出会ったという体験を持つこと。それは音楽だからできる、というところもあると今では思っている。そこに至る法則性みたいなものもの少し見通せるようになってきた。

でも個々人はそれぞれ違う身体を抱えていて、マニュアルがきかない。

そのマニュアルのきかなさは、いつも絡まった毛糸のような、それもどこか引っ張ってしまってギュッとあちこち固まってしまっているような、そういう状態のものを、手で柔らかくほぐしながら、絡まってできたコブを解いていく、という作業にかなり近いと思う。でも法則性はあるし、関わり方、というのがある。彼らへの指導方法は身体と心の状態などすべて含んだ全体のバランスからしか導き出せないから、私は彼らの閉じた感覚を そのままにはしたくない。引きつっているものをさらに引っ張って固結びになっては本末転倒だけれども、(そういうときは頭痛を訴える。)長いレッスンの中でふと浮き上がるように、その結び目が開く時があることも知っているから。とにかく根気あるのみ。ふわりとほぐす事を考える。

そして今週の彼のレッスンはまさにそれが功を奏したと思える日だった。

学校の新しいクラスにまだ馴染めず、教室に入ってもいつものように元気がないので、スクイッグルという、クレヨンでの対話を始めることにした。最初は白を選んだけれども、すぐに色を変えた。そう、ここは警戒して白で身を隠さなくてもいい場所だからね。そうやって幾つかスケッチをやってからピアノに向かった。

演奏を終えたあとの、しんとした彼の顔、上気した頬。
自分を取り戻したみたいに、私には見えた。

その日のノートには

練習のコツのところに

「スケッチしてリラックスしてからひく」とかいてあった。

そう。本当によかった。
あなたの毛糸がそれでほぐれていくものなら。

そして、改めて思ったこと。
音楽を描くというワークを、なんとか、カルフの箱庭療法や、モレノのドラマセラピーのように、きちんと理論を構築し、メソッドとして、確立したいということ。音楽を描く、という名称がきちんとつくまでは、私もまだ十分に的を絞れていなかったのだと思うけれど、今はこの名の示す方向がしっかりと見えてきている。

この記事を書いている人の
音楽ワークショップ「音楽を描く」は
こちら→ です。

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