動きや形がひとを癒やす

庭の小道と花壇を隔てている石を外し、すこしレイアウトを変えることにした。思いついたら善は急げ、で。そして、重い石をがつがつと外していきながら、私は箱庭をやっていた頃のことを思い出した。

箱庭療法

箱庭療法とは、心理療法・芸術療法の一つの手法。ひと目で見渡せる程の箱のなかには砂が入っていて、その砂の形を自由に変えて景色をつくり、その上に、ミニチュアの人形や車などを配置していく。そしてその経過のなかに箱庭をしている人の心が映り込んでいる・・というもの。元は子どもの治療として生まれたものだけれど、今は大人にも有効なものとして活用されている。
まえにお子さんがやったことがある、と言っていた方のはなしを伺ったら、「
箱庭を取り出してきた人が、子どもさんの精神分析をこれで判断されていて、すごいなと思った・・・」という話をされていて、ちょっとうっ、と思った。
箱庭は解釈のベースにユングの心理学がある。そして、本来は、精神分析するためのものではなく、砂をいじり、人形を選び、配置し、また入れ替え、やまをつくって崩し、川を広くしていったり、そういうことをただただ自由にやっていくもので、それをことばに出していくのを、セラピストはただ良い聞き手となるものなのだ。そして、例えば大事な場面で箱庭をする人が迷ったりした時、最小限の手を差し伸べるのが そばにいる人の本当の役目。

もっとも私は大学で箱庭の授業を受けるついでに その道具をお借りして、専ら1人で取り組んだ。大人だし、一応基本は授業で習っていたから、セラピストも自分。結局、ただただ箱庭をしていく中で、確かに私の中で何か箍(たが)のようなものを取り払う瞬間があった。その経験があるから、基本的にこのワークはクライエントが自分で自分を治療していくもの、という認識でいる。

箱庭療法から箱庭へ そして動くものと形について

さてあれからもう何年たっているんだろう、こうやって今はほんとの庭をほじくり返している。思えば、正方形のうちの庭を、もう10年以上も、あちこちと手を入れ続け壊したり作り直したりしているというのは、箱庭の続きをやっているってことなのかもしれない。
ただ、もう”自分の写しである 子犬の人形”や、敵対する誰かの象徴、心の壁や溝や、そんなものはどこにもない。ただ、リアルに泥と植物と僅かに鉢やトレリスなどがあるばかりだ。生きた植物たちは決して私の思い通りにはならず、はびこったり、気がついたら枯れていたりする。

それでも、そう、これは確かにあの、子犬を自分に見立てて谷の真ん中においた箱庭の続きなんだと思う。
療法、なんていう枠はとうに外れてしまって、ただの箱庭。

日本には昔から「箱庭」を愛でる習慣があったそうだ。思えば、いっときはやった苔玉なんかもそれに近いかもしれない。箱の中に石をおいて、苔をはやし、小さな樹木や 草木を生やす・・・・生きた箱庭。

庭は生きている。

箱庭も生きている。

そして、人形をおくだけの箱庭もやっぱり生きている

療法、という藪をくぐり抜けた、そこにのこっているもの、箱庭と庭とが共有しているものはなんだろう。

その経過の中で癒やされていくものがあり、癒やしていくものがある。その相互作用に終わりはなく、自分と庭とが混じり合いながら、時を刻んでいく。

意味を解釈される、”砂によって描かれた景色”や、”取り替えられた人形に投影するもの”という以前に、もっと初動でうずくもの

それは 動きであり、形であり、レイアウト、空間、時間。

人にとってそういったものは根本的に生命と直結した何かなのじゃないかな。

それは意識化された精神の療法ではなく、深い無意識や生命感覚にも近い、そして、人間だけが持っている抽象するちからのような、シュタイナーはそれをエーテルと呼んだのだろうか。


一番上の写真は、今日の庭。
4月になってあっという間に緑になり、すごい勢いでフウチソウもギボウシも葉を展開した。木でできた枠の左側にはクレマチスが絡んでいるはずだったが、多分、もう芽は出ない。私が肥料を絶やしてしまったから。

下の写真は、もうずーっとほったらかしだった椅子とそれに乗った多肉の鉢。
思いついて、あじさいの前に移動。この記事を書いて改めて写真を眺めていたらこの椅子が、”私”の象徴のようにおもえてきた。

 

 

 

 

 

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