毎日のご飯とこころのうた

2016年5月12日の「おとをみる かたちをきく」


コース料理もたまにはいいけれど、毎日の生活の中で基本的には、当たり前にふつうに美味しい料理を作ることに幸せを感じる、とか、部屋の中の余計なものを片付けて、できた空間に窓からの光が落ちるのを眺めるとか、そういうの。

私が思っている「音楽教室」はそんなものに近いと思う。

ワークショップなどを開くことになって、何か特別なことを始めているように思われるのかもしれないけれど、私が伝えたいのは、シンプルな経過の中に含まれる豊かさに気づいていこう、ということなのだ。実はごく当たり前の、地味な事をやっている。
なにか気をてらったことのように思われるのは、逆に、音楽を学ぶという選択の中に、そういうジャンルがないからなのかもしれない。

音楽をする、ということが何か「目的」を持ち、それを達成する、という日常から一歩アクティブな行動にでる、というような感覚。いや、もちろんそれもあり。私も無謀な大曲に挑むこともあるし、舞台に向けて夢中に曲を作っていくこともある。

でも、原点回帰とでもいうか、 自分という身の回りのできごととして、普通の・・普通の、という言い方は変かな、だったら 素朴な体験とでもいうか、毎日毎日白いごはんを食べるのに毎日毎日 いちいち「美味しい」と思える感覚、みたいなのを、音楽でもいつも感じていたい。発想の原点はそんなところにある。

一つの楽曲を仕上げる、とか、テクニックを磨く、ということも、楽器をやっていくうえでは必要なことだ。それはもちろん 音楽をやっている人間は基本努力家だから、十分に積み上げてこられている。でも、その目的意識が勝ちすぎてしまう中で忘れがちな、 自分の素朴な感覚で音楽を丁寧に味わっていく、ということを思い出して見よう、そういう提案をしたいと思っている。それを、画用紙に投げ出していって眺めてみよう、シンプルな動線にはたくさんの情報が含まれている。それを一つ一つていねいに聴いていく。自分のこと、音楽のこと。そしてその素朴さ、ご飯の美味しさや、ぽっとできた空間の素朴さを見失わないこと・・のようなこの作業が、表現力や、自分に適したテクニックや、楽曲の構築につながっていくことは、間違いないと思うのだ。

逆に音楽って敷居が高い、と考えている人も、毎日ちょこっとたべるお葉漬けのように、自分の傍に自分の似姿の なにかそれ、音楽と言ってしまうと大仰だけれど、うた、ああ、そう「うた」だ。うた、それも誰かのものではなく自分の。今まで聞いていたうたがもっと自分の傍や内側でなるような、そんな体験を味わってもらいたい。

結果ではなく、プロセスの中にそれはある。

何度も言うけれど結果をないがしろにするのではなくて、次元の違いに過ぎない。プロセスを生きる方法を、一緒に模索しましょう、そんなことをつたえたいとおもっているのだ。

時にそれは自分と向き合うことにもなるから、小さな自分に出会い、見つめ、認め、怒り、愛し、許しながら、細やかなところで 音楽と結んでいく、ちいさくても、気のながい作業となるかもしれない。

 


 

 

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